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 百科事典を読むことが好きな子どもだった。
 サラリーマン家庭だったにも関わらず、子どもの頃、家には全部で50巻ほどにもなる百科事典がどーんと本棚を埋めていた。歴史・生物・天文・科学技術‥‥あらゆる分野の専門的な解説が詰まったこの事典を片っ端から引き、読みふけるのが大好きだった。インターネットなどない時代、私はこの事典の中でさまざまな語句を検索し、知識の海をサーフィンしていたように思う。
 
 どうして急にこんなことを思い出したのか。それは、この夏に出会った2人のおかげだ。
 
 1人は、名古屋の東山動物園の新人飼育員さん。
 小学生の頃の自由研究で、絶滅に瀕している動物が地球上にこんなにたくさんいるんだということを知り、動物園の飼育員になりたいと決意。畜産を学べる大学に行き、卒業後は全国各地の動物園の採用試験を受け、30倍という難関をくぐり抜けて昨年夏、東山動物園の飼育員になったという彼女。
 そして担当したのが、絶滅危惧種としてレッドリストにも掲載されている「スミレコンゴウインコ」。国内初の繁殖を目標に、日々格闘する様子を密着取材させていただいた。
 
 彼女の目はまっすぐだった。
 小学生の時に受けた衝撃を、ずっと心の芯に持ち続けている。
 「動物たちの環境をよくしたい。地球上のどこかに絶滅しかかっている動物がいることをみんなに知ってもらいたい」と、静かに、だけどきっぱりと語ってくれた。
 
 もう1人は、名古屋市緑区と豊明市とでブドウ農園を営んでいる農家の方。
 どうしてブドウ農家に?という質問に
 「小学生の時に食べたブドウの味が忘れられなくて」と答えてくださった。ブドウ農家を志し、農業大学を出て山梨のブドウ農家へ。そこで健康な樹に育つ美味しいブドウの栽培法を学び、地元に戻ってブドウ園を立ち上げたという。
 1年間、手間暇かけて大切に育てたブドウは、とてもみずみずしくて甘かった。彼の言葉どおり「世の中にこんなに美味しいものがあるなんて」という驚きの味だった。
 
 
 『13歳のハローワーク』という本の中で、著者の村上 龍が語っている。
 「世の中には2種類の人間・大人しかいないと思います。自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人と、そうではない人のことです」
 大人になれば何らかの方法で生活の糧を得なければいけない。それならば嫌いなことをいやいやながらやるよりも、好きで好きでしょうがないことをやった方がいいと言っているのだ。そのために、自分は何が好きか、自分の適性は何か、自分の才能は何に向いているのか、そういったことを考えるための武器が好奇心だと。
 
 小学生の頃の夢をかなえたお2人と、そしてこの本の言葉。
 私の子どもの頃の夢って何だったっけ。私は好きなことを仕事にできているのかな。そう考えていた時に思い出したのだ。百科事典のことを。
 
 知らないことを知ることの楽しさ。朧げだったことが霧が晴れるように感じられる瞬間の爽快感。私にとってその原点は、あの事典だ。
 
 子どもの頃、作家になりたいと夢見ていたわけではない。「将来なりたい職業は?」と聞かれても「うーん、学校の先生、かな?」 だって世の中に構成作家って職業があるなんて、当時は知らなかったから。
 なんとなく成り行きで就いてしまったような仕事だけど、ただ一つ、知らないことを知る楽しみは叶えられているように思うのだ。
 
 私たちの仕事は、取材や撮影という名目でふだん一般の人が行けないような場所に行ける。取材でお会いする方たちからは、今まで知らなかったことをたくさん聞く事ができる。資料を読み漁り、新たな知識を得る事もある。台本に書くのはそのうちのほんの一部で、その何倍もの知識が、仕事をするたびに私の中に入ってくる。
 
 この稼業をしていると、こうしてどんどん蘊蓄(うんちく)や知識が増えていく。一見、生きていくにはあまり役に立ちそうもない知識。でもそれは小学生の頃のワクワクした気持ちを思い出させてくれる、私には懐かしくて楽しいものなのだ。それが実感できる限り、私はきっとこの仕事が自分に合っているのだろう。
 
 夏休みの宿題に、将来の進路を考えるという課題があるとかで頭を悩ませている長女。
 「んなもん、今から決められるわけないじゃんね」
 うん、確かにそうだね。
 だけどこの先、いつか「あ、これ好きかも」というものに出会うかもしれない。それはこの夏私が出会ったお2人のように、ある日突然その人を魅了するのかもしれない。「自分の好きなものは何だろう」という好奇心さえ失わずにいれば、いつかその出会いを自分のもとに引き寄せられるんじゃないかな。あるいは私のように、いつの間にか好きなことをやっていたと気づく時がくるのかも。
 
 焦らなくていい。だけど幸せな人生のヒントは、きっと自分自身の中にある。


 
  ブドウの浅果園のご主人 梶野さんのお話は9月14日(日)、
  東山動物園の飼育員 山部さんのお話は9月28日(日)の、
  いずれもCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」で放送されます。
  お世話になった皆さん、どうもありがとうございました。

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# by aya_harumi | 2008-08-29 20:59 | 日記
 
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 これは何かの試練なのか?
 そう思うほど、このところ毎日のように締め切りに追われている。書いても書いても次々と書かねばならない原稿がやってくる。
 ありがたいことなのだろうが、生活のほとんどすべてが「書く」ことに埋め尽くされるとさすがに辛くなってくる。生きるために必要な最低限のこと、食べることと眠ること以外はずっとPCに向かっているか、書くために必要な取材や打合せをしているか。トイレに入っていても歯を磨いていても、頭の中はナレーションのフレーズを考えていたり企画書のタイトルをあれこれ思い浮かべていたり。暑さもあいまって知恵熱が出そうだ(事実、出た)。
 
 もうダメだ。もうやめたい。何度そう思ったことか。
 自分はいったい何のために仕事をしているのだろう、と根源的な疑問すら浮かんでくる。
 お金のため? お金を稼ぐだけだったらもっと楽な仕事があるんじゃないか(でもどんな仕事だって大変なことはあるはず)
 名誉のため? 何だ名誉って。別に今さら偉くなりたいとかナントカ賞を受賞したいとかないぞ(くれるものは貰うけど)
 視聴者のため? うーん、なんだかイメージしにくいな(いや、いつもお客さんのことは考えているけれどね)
 あれこれ浮かんではくるけど、そんなことを考えてる時間がもったいないので頭の隅に追いやりながら、原稿の続きをまた考える。辛い。あぁ私、なんでこんな辛いことしてるのかな。と再び堂々めぐり。
 
 「書く」ということ自体は昔から嫌いではない。いろんな人に出会って得られたさまざまなこと、驚きや感動や共感したことを「書く」ことを通じて人に伝えるのも、たぶん私の性に合っていると思う。日本語という言葉の豊かさもとても好きなので、それを扱う職業にも誇りを持っている。
 
 でも、辛いものは辛いのだ。
 どんなに取材や打合せをしてきても、最終的に文字にする作業は1人きり。ひとりで思考の奥深くに潜り込んで、そこから言葉を見つけ出して一文字一文字紡いでいくしかない。誰も手伝ってはくれない作業。ぴったりの言葉がすぐに浮かぶことなど稀で、たいていはうんうん唸りながら七転八倒することになる。締め切りは刻々と迫る。逃げたい。でも逃げられない。
 
 あぁ、私ってなんでこんな辛いことしてるんだろう。
 
 そんな時に見つけた言葉がある。いや、以前から目にはしていたのだけど、あらためて気づいたというべきか。
 
 『ONE FOR ALL』───1人は、みんなのために。
 
 この言葉には実は続きがあって、フルバージョンでは『ONE FOR ALL , ALL FOR ONE』。直訳すると「1人はみんなのために、みんなは1人のために」だ。
 
 ラグビーをやっていた人なら聞いたことがあると思う。チームワークの大切さ、一人一人がチーム全体の中で果たすべき役割があるといった意味で使われる言葉だ。
 転じてサッカーや野球などチームでプレーする競技でもよく使う。私が目にしたのもバスケのチームメイトが着ていたTシャツでだ。
 1人の優れたシューターがいるだけでは試合には勝てない。絶妙なタイミングでパスを出す者、ディフェンスを引きつける者、カバーにまわったりブロックをする者、全員が1本のシュートのために動く。それぞれの持ち味を生かしながら。
 
 あ、これかもしれないな。私が辛くても頑張れる理由。
 
 私たち映像制作の仕事はまさにチームワークだ。現場ではカメラマン、音声さん、照明さんといった職人肌の技術さんたち。編集した映像に素敵な音楽や効果音をつけてくれる音効さんや喋りのプロのナレーターさん。そしてそれをまとめあげるディレクター。みんなそれぞれが専門職で、それぞれの分野で力を発揮しあって一つの作品ができあがる。
 
 私の書く企画書や台本は、いつもそのスタートなのだ。
 制作にかかわるすべての人が、私の書いたものを頼りに各々の仕事を進める。よく台本は建築で言う設計図に例えられるけれど、設計図がちゃんとしていなければ職人さんたちは何をどう作ったらいいかわからない。台本が上がらなければ、誰も仕事にとりかかれない。
 
 プレッシャーは正直、ある。
 脚本家で、NHKの連ドラ「ふたりっ子」を書いた大石静さんは「私の後ろには100人のスタッフがいる」と思いながらあの長いシナリオを書ききったそうだ。
 さすがに100人もはいないけれど、私の書くものは間違いなくスタッフみんなが必要としているものだ。
 このホンを待っている、みんなのために。辛いけど頑張ろう。
 
 頑張り過ぎてフラフラになりながら仕事場から自宅に戻り、何日かぶりにムスメたちといっしょに夕食をとった。なんのきっかけだったか話題が「将来の職業」の話になった時。
 イラストや漫画を描くのが大好きな次女が、きっぱりと宣言した。
 「わたし、漫画家にはならない」
 え、どうして? ちょっと前まではあんなになりたいって言ってたじゃない。夢を諦めるにはちと早すぎないかい?
 「だって締め切りがあるもん。テーマだってあるし。好きなものを好きな時に好きなだけ描いてるのは楽しいけど、仕事にしたらそうじゃなくなるでしょ」
 そ、それは親を見て言ってるのか。小6にしてこの達観。誉めてやるべきなのか嘆くべきなのか、親としては激しく悩む。あぁやっぱり知恵熱が出そう。
 
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# by aya_harumi | 2008-07-20 12:43 | 日記
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 しばらくブログの更新が止まってしまいました。いえ、別に商いを休んでいたわけではなく、ブログを書く暇もないほど商いに精を出していたわけで。はい、もう書いて書いて書きまくっていたような気がする。ここしばらく。
 
 そんな日々を過ごしているうちに、気づいたら梅雨入りしていた。
 私たちの仕事にとって雨は大敵。雨の中のロケはそれはそれは大変なのだ。内容によっては、雨だと延期しなければならないことも(それもまた大変)。でもこの時期、予備日だって雨が降らないとは限らない。
 だから結局雨でも決行。そしてきまってスタッフの誰か1人に集中砲火を浴びせる。またいるんだ、運の悪いヤツが。なぜかそいつがいるロケに限って雨が降ることが多いって人。「そう言えばこの前も降った」とみんなで寄ってたかって「雨男」に仕立て上げる。この業界、一度ついた雨男の称号はなかなか消えてくれない。
 それぐらい雨は忌み嫌われるということ。どんなロケでもスカッと気持ちよく晴れてほしいものなのだ。(ちなみに私は「雪女」。これも実は嫌われる)
 
 で、こんなやっかいな時期に私たちはどこへ取材やロケに行っていたかと言うと。

 ひとつは愛知県の東北端、町の面積の90%が森林という北設楽郡東栄町。杉林の中で栽培されている林間ワサビの取材だ。林の中で木漏れ日を浴びて育つワサビを、なんとしてでもカメラにおさめたい。
 そしてもうひとつは岡崎市の中心部から車で30分のところにある、全校生徒68名の小学校。学校林である裏山を、昔の里山の姿に戻そうとみんなで活動しているという。こちらも雨が降ったら活動そのものが中止になってしまう。
 
 連日天気予報とにらめっこしながら迎えたロケ当日。どちらも奇跡的に晴れ間がのぞき、無事に撮影することができた。
 こういう時はスタッフみんなが自慢げに言う。「俺、晴れ男だから」「いや、俺だよ、俺」子どもじゃないんだから。
 それぐらい梅雨の晴れ間は貴重なのだ。私たちにとっては。
 
 
 で、あちこちの「山」を訪ねながら思ったこと。
 ほんとうに今、山仕事の担い手が減っているんだなぁと。林業の衰退は言われて久しいが、このままだと日本の山はどうなってしまうんだろうというぐらい、危機的な状況だ。
 
 日本は国土の3分の2が森林で、北欧に並ぶ「森林大国」だ。そしてその森林の多くが自然林ではなく、人が手を入れながら育ててきた「人工林」。木材としての杉やヒノキを育て、間伐材も余すところなく利用してきた。人里近くの山では炭を焼いたり薪にするための雑木や小枝、家畜の餌にするための草を集めに行った。昔ばなしの「おじいさんは山へ柴刈りに」という「柴」は、こうした小枝や草のことだ。
 山の恵みを暮らしの中に存分に取り入れてきた国なのだ。
 ほんの数十年前までは。
 
 時代とともに、木材は安価な輸入材にその需要を奪われ、人手がないため間伐が行われることも少なくなった。炭も薪も現代社会では必需品ではなくなり、柴刈りするおじいさんも姿を消した。
 
 「山というものは人が行くことが肥やしになる」
 そう教えてくださったのは、東栄町の林業家の方だ。
 山はとにかく人が入って、巻き付いたつるを取り除いたり余分な木を伐採したり、下草を刈ったり枝打ちをすることが大切なんだと。そうすることで森林が健康な状態に保たれる。人が入らなくなった山は荒れる一方だと。
 
 その山の手入れをする人々が、今急激に減っている。
 それは山の恵みがお金にならないから。なぜお金にならないかと言ったら、それを必要とする人がとても少なくなっているから。
 
 でもね。実は日本の木ってすごいのだよ。それを私は毎日実感している。
 
 ポルックスの事務所も含めたわが家は、日本の木をつかって建てられている。建物の構造材や母屋の床板には徳島の杉が、会議にも使われる母屋の大テーブルは信州のアカマツが、事務所の床板には丈夫な栗の木が。
 
 家を建てようとした時、真っ先に考えたのが「国産の木で建てる」ことだった。
 昔取材させていただいた宮大工の棟梁や、その時に資料として読んだ本の内容が頭から離れなかったからだ。
 
 飛鳥時代からの技を受け継ぐ宮大工さんが口を揃えて言うのは、「日本の建物は日本の木で建てるのがいちばん」ということだ。
 木というのは、伐られて木材として建物の一部になっても生きている。100年かけて育てた木で建てた建物は100年もつ。樹齢千年ならば千年。法隆寺などの歴史的建物が残っているのはそのためだ。
 そしてそれは、日本の風土に合った木だから。四季があり、湿度が高いこの国で育った木は、建物になってもその気候にもっとも適したものになる。
 
 幸いにも、国産の木をつかってとてもいい家づくりをしている大阪の設計士さんと出会うことができ、私たちの家が建った。
 そして住み始めてつくづくと思った。「やっぱり日本の木ってすごい!」
 
 その実力をいちばん実感できるのが、この梅雨の季節だ。
 じめじめとした湿気が家の中にこもりがちだが、わが家は違う。木がほどよく湿気を吸ってくれるので、家の中は比較的爽やかだ。風のある日は窓を開けておけば涼しいくらい。エアコンの除湿モードなしには過ごせなかった以前のマンション暮らしとは大違いだ。

 逆に乾燥する冬場は湿気を吐き出してくれるので、これまた快適。
 よく「一戸建ては寒い」と言われるが、木は昼間の温もりをためていてくれるので、夜になってもほんのりと暖かい。母屋は2階までの吹き抜けがある大きな空間だが、床暖房とふつうサイズの石油ストーブひとつで十分なくらいだ。
 建てて9年たつが、いまだに玄関に入ると木の香りがすると言う(家人は慣れてしまってわからない)
 そしてわが家ではスリッパを使わなくなった。客が来ても出さない。足の裏への肌触りが心地よいから、スリッパを履くなんてもったいないのだ。

 木の家はすごい、とうちに遊びに来た人は実感してくれる。けれど同時に決まって言われる言葉がある。「でも高いんでしょ」
 そりゃ無節の総ヒノキで建てりゃ高いよ。間違いなくね。
 でもわが家のように、節があっても味わいがあっていい、ヒノキほど硬くないけど杉でもいいよというのならばびっくりするような額にはならない。同じ規模の建売住宅と比べても、そんなに大きくは変わらないんじゃないかな。(それはもちろん、予算のない私たちのために、設計士さんがものすごく知恵を絞ってくださったおかげもあるのだけれど)
 
 自分たちが気持ちよく暮らすために建てた家。
 けれどこの家が、わずかながらでも日本の山を守ることに役立っているのなら嬉しい。こういう家がもっともっと増えてくれれば、木材の需要も増え、林業に携わる人々も山を捨てずに済むのになと思う。
 
 木の家ってすごいんだよ、とみんなに触れ回る私たち。でもうちの子どもたちは小さかった頃、よく言ったものだ。
 「木のおうちもいいけど、レンガのおうちの方がもっとよかった」
 ん? レンガのおうち? 何それ。
 
 理由は、保育園にお迎えに行った時にわかった。
 『3びきのこぶた』の絵本。わらのおうちと木のおうちはオオカミに壊されてしまうけど、レンガのおうちはびくともしませんでした、というお話。
 レンガのおうちは日本の風土には合いませんって。オオカミもいないし。ね。
 
 
 
 
  東栄町の「林間ワサビ」のお話は7月13日(日)、里山再生活動をしている岡崎市立秦梨小学校のお話は
 8月10日(日)のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」で放送されます。
  いずれも後半の「ちきゅう屋劇場」というVTRのコーナーです。どうぞお楽しみに!

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 世間はGWらしいが、ポルックスはそんなのどこ吹く風で取材にロケにと飛び回っている。まぁ毎年のことですが。
 
 そんな連休の谷間だった1日。愛知県の西尾市に私たちは向かった。「人生の応援歌」という番組の取材とロケハンに。お天気はまずまず。名古屋から車で1時間半ほど。行きの車の中で食べようとおにぎりなんかも持参していて、ちょっとした遠足気分だ。いっしょに行く相手がうちのムラセというのはさておいて。
 
 「人生の応援歌」では、この道ひとすじで長年ひとつの仕事を続けてこられた方を毎週一人ずつ紹介している。5分という短い番組ながら5年目に入り、放送回数もこの5月3日で210回を数える。このブログの前にやっていた「春のおと」でも書いていたくらいだから、相当長続きしている番組だ。
 
 そんな私たちの番組宛てに、一通のお便りをいただいた。「人生の応援歌制作 担当者様」という書き出しで。
 
 送ってくれたのは西尾市立西尾小学校の5年2組のみなさん。なんでも総合学習の時間に西尾の職人さんたちを調べ、夏休みには一日弟子入り体験をしたりして、職人さんたちから話を聞いたのだそうだ。たくさんの苦労や悩みがあるのを知り、自分たちにできることはないかと話し合ったのだとか。
 そして、町の職人さんたちをもっと知ってもらおうと、自分たちが調べたレポートを依頼文に添えて送る事にした。市の広報や新聞社の方にも送ったけれど「職人というだけでは取材できない」と言われ、どういう人が取材してもらえるか、取材する価値とはどういうことか、またみんなで話し合ったけれど結論は出なかったらしい。悩んだ挙げ句、とにかく読んでもらって、番組スタッフ(私たち)に取材する価値があるかどうか決めてもらおうということになったのだと綴られていた。
 
 「読んでいただいた結果、取材はできないけど、こんな職人が西尾にいるということだけでも知ってもらえればうれしいです」
 
 という言葉で、その手紙は締めくくられていた。そしてそれに続くレポートには、西尾に住む10数人の職人さんたちが写真と丁寧な文章とで紹介されていた。
 
 もうね。制作スタッフ一同、感激しましたよ。涙もろいTプロデューサーなんか「やりましょう!西尾月間!」と会議の場で即決だったもの。
 
 その後いろいろ放送スケジュールを調整して、6月の一ヶ月間、子どもたちが取材してくれたレポートの中から出演を承諾してくださった方を4週続けて放送することに。題して「西尾小学校プレゼンツ」。ちゃんと番組の冒頭で、西尾小の名前も出すことになったようです(今はもうみんな6年生に進級しちゃってるんだけどね)。
 
 そんなわけで、この日は4本放送するうちのポルックス担当分2本の取材とロケハン。
 一件目の刃物職人さんの後、次のアポの和菓子屋さんへ行ったら、なんと西尾小の子どもたちが! どうやら私たちが取材に来ることを知って、学校が終わってから待ち構えてくれていたようだ。総合学習でこの店の職人さんのレポートを書いてくれた子もその中にいて、私たちは直接お礼を言うことができた。ありがとう、今日ここに来れたのはキミのおかげだよ、と。
 
 子どもたちと会えて嬉しさに浸ってるばかりじゃいけない、さっそく本題の取材を始めなくちゃ。
 私たちがご主人に話を伺う様子を、横でじっと見つめる子どもたち。付き添いに来てくださった先生が取材の様子を学校のHPに載せたいからと写真まで撮っている。き、緊張するなぁ。
 
 この番組を担当していて毎回すごいなぁと思うのは、一度として同じ台本にはならないことだ。200回以上の放送のうち、半分の100人以上の方にお会いして台本を書いてきたことになるのに。
 人それぞれ、人生はみんな違っている。だから素晴らしい。そしてどんな方の人生にも必ずドラマがある。どんなに小さな店の職人さんでも、長年その仕事をひとすじにがんばってきた方というのは、辛さや苦しさも含めて自分の仕事を愛していらっしゃるものだ。丁寧にお話を伺っていくうちに、その方の人生がくっきりと輪郭を見せ始める。それを映像で形にするのが、私たちプロの仕事なのだろう。
  
 取材する価値とはどんなことなのか、どういう人が取材してもらう価値があるのか悩んだというキミたち。
 それはね、取材される職人さんの側にあるのではなく、キミたち取材する側にあるのだと私は思う。
 相手の話にいっしょうけんめい耳を傾ける。その人のすごいところはどこだろうと想像力をめぐらせる。何より相手を尊敬し共感する。そうやって相手の懐に入っていって伺った話というのは、きっとものすごく価値がある。そしてそれを多くの人に伝えたいと思う強い気持ちが、人の心を動かす文章になる。
 キミたちの書いたレポートはどれも、私の目にはとても価値のあるものだったし、職人さんのことを伝えたいという思いにあふれていたよ。
 
 番組の趣旨で、実は子どもたちが推薦してくれた4代目ではなく、そのお父さんの3代目が主役になってしまったのは申し訳ないのだけれど。でもちゃんと4代目にも画面に出てもらうからね。どうか楽しみにしていてください。
 

  中京テレビ「人生の応援歌」、西尾小学校プレゼンツは6月7日・14日・21日・28日です。
  この日、私たちが取材させていただいた和菓子の穂積堂さんは14日に、
  刃物のこわやさんは28日に放送される予定です。

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# by aya_harumi | 2008-05-04 00:58 | 日記
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 先週の日曜日、私たちは番組のロケで小牧市東部にある一軒の民家にお邪魔していた。
 名古屋から車で一時間ほどというところにありながら、そこは山あり森あり田んぼありのいわゆる“田舎”、今風に言うなら“里山”の風景が広がっている。その集落の中にある築70年の民家、そこが今回の取材先「兒里(ちごり)の家」だ。
 
 「兒」というのは児童の「児」の旧字だそうで、つまりここは子どもたちのための家。館長さんが会社勤めの傍ら、ボランティアで近郊の子どもたちやその家族に田舎の遊びや自然を体験してもらおうと立ち上げた家だ。
 
 農作業をしたり森や川を探検したり。森の木の小枝で工作したり野原で摘んだ野草を天ぷらにしたり。なんだかちょっとしたキャンプみたい。
 で、打合せの時、撮影の当日はどんな体験を予定してるんですかと尋ねたら、館長さんが集落のふもとに広がる田んぼを指差して「あそこをお散歩しようと思うんですよ」とおっしゃった。
 
 田植え前の田んぼにはレンゲが咲いていた。レンゲ畑!
 それを目にした途端、私の記憶は30何年分あっという間に巻き戻った。
 
 やはり名古屋から1時間くらいのところにある公団住宅。そこが私が育ったところだ。60棟以上、2000世帯くらいはいただろうか、大規模開発された「団地」のはしりで、当時としては最先端だったらしい。
 私が生まれた年にできたその団地には、わが家も含め同じように小さな子どもを抱えた若い夫婦がおおぜい入居していた。通った小学校は、1年生が7クラスもあって、学年が上になるほどクラス数が減っていき6年生は3クラス、というピラミッド型。子どもが大きくなるにつれ手狭になって引っ越していくという、典型的な「団地の小学校」だった。
 
 団地の中を突っ切って外れまで来ると、まわりはすべて田んぼ。その中に小学校は建っていた。春になるといちめんレンゲで覆われる。まっすぐ帰るはずもなく、学校の帰り道はいつもその田んぼで遊んでいた。
 レンゲやシロツメクサで首輪をつくったり、草笛になる草を探したり。水路に泳ぐおたまじゃくしをすくったり、チョウチョやカナブン、ダンゴムシを捕まえたり。時にはちょっと遠征して、溺れた子がいるからと近寄ることを禁止されてた川まで行ってみたり、林の中の木に登ってみたり。
 ところかまわずどこにでもお尻をついたり滑ったりするので、パンツはゴムが緩くなる前にお尻に穴があき、手足には生傷が絶えずいつもどこかしら赤チンが塗ってある。そんな子どもだった。私だけでなく、当時はどの子も。
 夢中になって遊んでるうちに日が暮れてしまって、親に怒られるのをなかば覚悟しながら慌てて家めがけて走って帰る。そんな毎日だった。
 
 その団地で小学5年生の終わりまで過ごし、弟も妹も生まれて手狭になったというお決まりの理由でわが家も引っ越しをした。新しい土地はそれまで過ごした新興住宅地とは対照的な土地柄で、中学生になった私はなかなか馴染むことができなかった。
 
 中学時代の思い出はあまり楽しいものではない。よそ者、転校生の上に生意気で負けず嫌いという私の性格もあったのだろう、今でいうところの「いじめ」にも遭った。
 まわりに溶け込めず孤独をかみしめながら当時の私が繰り返し思い出していたのが、あのレンゲ畑で遊んだ日々だったのだ。
 
 学校なんて行きたくない、あの頃に戻りたい、などと思いながら、私は何度も何度も無邪気に遊んだ幼い頃のことを思い返していた。胸の中で大事に大事に、自分の記憶を抱き締めるようにしながら。いじめられてすっかり後ろ向きになって過去を懐かしんでいただけ、と言われればそうかもしれない。だけどその記憶があったから孤独は慰められたし、私はまだ大丈夫という勇気もなぜか与えてもらったように思う。
 
 大人になるにつれて記憶は薄れていく。いっしょに遊んだはずの友だちの顔や名前はどんどん朧げになっていく。
 それでもふとした瞬間に蘇る記憶というのもまたある。レンゲ畑の甘い香りに。むせかえる草木の匂いに。虫の鳴き声や公園の木の肌触りに。
 五感に刻まれた記憶は強いのだなと思う。ふだんは奥底にしまいこまれていても、同じ匂いを嗅いだり音を聴いたり手触りを感じた瞬間、ぶわーっと堰を切ったように蘇ってくる。あぁ、だから人は自然のあるところに行くと癒されるのかもしれないな。幸せな子ども時代を想い出して。

 私も野山ばかりを駆け回っていたわけではない。当時の「現代っ子」らしく、テレビも見れば習い事にもせっせと通っていた。
 それでもこうして甘酸っぱく思い出すことのできる記憶があってよかったなと思う。あのレンゲ畑の日々は今も私の心の芯にちゃんとあるのだ。たぶん死ぬまでずっと。
 
 「兒里の家」で遊んだ子どもたちは、どの子もみないい笑顔でした。この上ないほどのお天気にも恵まれていい映像がたくさん撮れました。
 「ばいばーい!」と元気よく帰っていく子どもたち。街に戻ればふつうの幼稚園児・小学生と変わりないのかもしれません。学校や塾や宿題があって、ゲームして遊んで、年頃になれば友だち関係で悩んだりもするでしょう。
 
 でもね、でもね。この日この場所で、レンゲ畑の中で遊んだ記憶、いつかきっと宝物になるかもしれないよ。かつての私がそうだったように。
 
 そんな想いを込めて、ナレーションの最後の一行を書きました。え、なんて書いたかって? それはぜひ番組を見て確かめてください。
 
 
  「兒里の家」のお話は、5月18日(日)のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」で放送されます。
  後半の「ちきゅう屋劇場」というVTRのコーナーです。
  最後になりましたが、館長の橋本さんはじめこの日来てくださっていた皆さん、
  そして元気なちびっ子たちや光ヶ丘小学校のみんな、どうもありがとうございました。

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 久しぶりのオフ。よく考えてみたら今月初めてのまる一日休み。なにか有効に使わなくちゃ。
 と考えたので、昨晩は張り切っていなり寿司をつくった。
 
 うちのいなり寿司は何年か前から「わさびいなり」。中に詰めるご飯にわさびマヨネーズを混ぜてつくる。以前取材させていただいた店のわさびいなりがとても美味しくて、試しに作ってみたのが始まりだ。わさびマヨネーズは、長野方面に出かけた時に買っておくわが家の常備品。ピリっとしたわさびの香りと甘辛い揚げとが意外とよく合って、ついつい手が伸びる人気メニューだ。
 
 いなり寿司をつくると思い出す。子どもの頃に食べた母のいなり寿司。揚げがはちきれんばかりにギュウギュウに酢飯が詰まっていて、美味しいのだけどすぐにお腹いっぱいになっていくつも食べられなかった記憶がある。
 そしてそんな「おいなりさん」をつまむ横で、決まって母が話し出す。
「お母さんが子どもの頃は、お弁当というとご飯の上に揚げがのったやつだった」
 きょうだいが多く決して豊かではなかった母の実家。時代もあったのだろう。白いご飯の上に甘辛く炊いた揚げがのっているのがお弁当の定番だったと言う話。
 はいはい、もう百万回くらい聞いた、その話。と可愛げのない当時の私。
 
 お弁当と言えば、中学の頃から自分でお弁当をつくっていた。
 もちろんその頃の私のお弁当にご飯と揚げだけということはなかったのだが、なんとなく母に頼むのが億劫だったのだ。遠足や運動会など行事の時はさすがに作ってもらったが、ふだん(と言っても中学は平日給食があった)土曜日の午後、部活がある時にお弁当を作ってと頼めない雰囲気。部活がなければお弁当はいらない(当時は土曜日も午前中授業があった)。バスケやってるのはあなたが好きでやってることでしょ、とかなんとか言われたような気がする。
 ええい、めんどくさい。なら自分で作るからいいよ。とやっぱり可愛げのない当時の私。
 
 で、今。
 中学生の娘(ソフトボール部)が仕事を終えた私のところにやってくる。
「お母さん、明日の土曜日の部活お弁当持ちなんだけど‥‥あ、いいよいいよ、自分でつくるから」

 歴史は繰り返す。
 娘よ、ごめん。せめて元気のある時はつくるようにするから。さ。
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# by aya_harumi | 2008-04-19 23:26 | 日記
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 バスケットボールを始めたのは39才の時だった。
 小・中・高とバスケ部にいてその後はボールを触ることすらなかった私が、どうして突然またバスケをやろうと思ったのかと言われれば、いちばんの理由は「もうすぐ40だから」だったと思う。

 30代の後半あたりから体力の衰えを感じていた。体の不調も多く経験した。私たちの仕事は体力勝負でもある。ロケ現場に行けば一日中立ちっぱなしは当たり前だ。このままいくとヤバいぞ、何とかして体力を維持しなくては。漠然とそういう思いはあった。
 それだけならジムやプールに行くという手があっただろう。あるいは同世代の友人らがハマっているヨガやダンスという選択肢もあったと思う。テニスとかゴルフとか。この先長く続けようと思うなら、いわゆる中高年でもできそうなスポーツを選ぶべきところだ。
 
 でもどうしてもボールが触りたかったのだ。もう一度。
 娘が小学校でバスケ部に入り、その応援に行くうちにさらにその思いは強くなった。
 その時、39才。あと一ヶ月で誕生日がきて40才になる。いまバスケをしなかったら、この先一生ボールに触ることはないだろうな。そう考えたらいてもたってもいられなくなった。ネットで社会人のバスケチームを探し、ボールとバッシュを買って気づいたら体育館に立っていた。
 
 あれから3年が経とうとしている。
 いいチームと仲間に恵まれ、私は今でもバスケを続けている。どころか今年は選手登録して試合に出ていたりもする。マンツーマンのディフェンスについた相手が、自分の年の半分以下なんてことに軽くめまいを覚えながら。
 
 なんだ。まだまだ私いけるじゃん。
 体力も技術も怪しいものだし、チームの足を引っ張らないようにするのが精いっぱいだが、少なくともバスケができて私は今幸せだ。体力がついたのはもちろん、仕事以外に夢中になれるものも手に入れた。世代の違う友人たちと過ごすひとときは仕事の疲れを吹き飛ばすほど楽しい。
 あのとき「もうすぐ40だから」と諦めなくてよかった。「もうすぐ40だから」と思い切ってよかったとつくづく思う。
 
 自分の体験から考えても、39才は転機だったと思う。
 今にして思えば40代になるのが少し怖かったのかもしれない。無意識のうちに40代は人生の下り坂と思っていたのかも。もう後がない、みたいな。
 
 そんなドラマがこの春始まった。
 TBS金曜ドラマ「Around 40 〜注文の多いオンナたち〜」。大好きな天海祐希さんが主演だし、同世代の女性を描くとあって第1回放送を楽しみにしていた。
 
 番宣によれば、

 アラウンド40(アラフォー)とは40歳前後の世代のこと。
 彼女たちは、80年代に青春を送り、10代の終わりに男女雇用機会均等法が施行され、就職活動はバブルの頂点、就職したら「新人類」、頑張って働いてきたら今度は「負け犬」と呼ばれ・・・と、いつも時代の象徴とされてきた世代だ。産休や育休などの制度普及と重なり、事実上、仕事と育児の両立が可能になった世代でもある。しかし、多様なライフスタイルと価値観を持ちながらも女性にとっては選択肢が多い分、迷い多き世代ともいえる。

 
 だそうだ。
 ドラマの冒頭でそんな「アラフォー」世代についての解説があるところは、TBS的と言うべきか。
 確かに私自身、学生時代はバブリーだったし、男女雇用機会均等法第2期生(確か)だし、子どもを産んだ頃は産休・育休を求めて会社と交渉したりもした世代だ。
 でも時代背景に関わらず、40才前後というのは迷いの多い年代なんじゃないのかな。昔も今も。もっと言うなら男性も女性も。
 
 ドラマの中に、天海祐希扮する精神科医の台詞で、患者にペットボトルの水を見せて
「もう半分、と思うか、まだ半分、と思うかによって見方は全然変わってくる」
というのがあったが、40才というのは「もう半分、と思うべきか、まだ半分、と思うべきか」で人は迷うのではないかなと私は思う。私自身がそうだったからだが。

 ドラマのプロデューサーは新聞のインタビューに答えて
『「今のままの自分でいいんだよ」と訴えたい』
と言っていた。300人以上のアラフォー世代に取材したとも。
 あれ、ということは「今のままの自分でいい」と思えない人が世の中には多いということか。もしかしたら私はとても幸せ者なのかも。いやそれとも単に世間一般からずれているだけか。
 
 結果として、40代始まってしまえばどうということはない。
 さすがに「気持ちはまだ20代」とは口に出して言わないけれど、やりたいことはやるし、手に入れたいものは手に入れる。そういう意味では私は私。20代も30代も今も変わりない。先のことはわからないが、たぶん50代も60代もそう思っている自分がいるような気がする。
 なんだ。まだまだ私いけるじゃん。ってね。



  先日東京でお会いして、昨日スタジオ収録だった元バレーボール日本代表の大林素子さん。彼女もとても
 素敵な「アラフォー」でした。40才になった今も毎年一つずつ夢がかなっているという大林さんの魅力を、
 5月4日のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」でご覧いただけます。どうぞお楽しみに!

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