<   2008年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧
b0126865_2357499.jpg


 先週の日曜日、私たちは番組のロケで小牧市東部にある一軒の民家にお邪魔していた。
 名古屋から車で一時間ほどというところにありながら、そこは山あり森あり田んぼありのいわゆる“田舎”、今風に言うなら“里山”の風景が広がっている。その集落の中にある築70年の民家、そこが今回の取材先「兒里(ちごり)の家」だ。
 
 「兒」というのは児童の「児」の旧字だそうで、つまりここは子どもたちのための家。館長さんが会社勤めの傍ら、ボランティアで近郊の子どもたちやその家族に田舎の遊びや自然を体験してもらおうと立ち上げた家だ。
 
 農作業をしたり森や川を探検したり。森の木の小枝で工作したり野原で摘んだ野草を天ぷらにしたり。なんだかちょっとしたキャンプみたい。
 で、打合せの時、撮影の当日はどんな体験を予定してるんですかと尋ねたら、館長さんが集落のふもとに広がる田んぼを指差して「あそこをお散歩しようと思うんですよ」とおっしゃった。
 
 田植え前の田んぼにはレンゲが咲いていた。レンゲ畑!
 それを目にした途端、私の記憶は30何年分あっという間に巻き戻った。
 
 やはり名古屋から1時間くらいのところにある公団住宅。そこが私が育ったところだ。60棟以上、2000世帯くらいはいただろうか、大規模開発された「団地」のはしりで、当時としては最先端だったらしい。
 私が生まれた年にできたその団地には、わが家も含め同じように小さな子どもを抱えた若い夫婦がおおぜい入居していた。通った小学校は、1年生が7クラスもあって、学年が上になるほどクラス数が減っていき6年生は3クラス、というピラミッド型。子どもが大きくなるにつれ手狭になって引っ越していくという、典型的な「団地の小学校」だった。
 
 団地の中を突っ切って外れまで来ると、まわりはすべて田んぼ。その中に小学校は建っていた。春になるといちめんレンゲで覆われる。まっすぐ帰るはずもなく、学校の帰り道はいつもその田んぼで遊んでいた。
 レンゲやシロツメクサで首輪をつくったり、草笛になる草を探したり。水路に泳ぐおたまじゃくしをすくったり、チョウチョやカナブン、ダンゴムシを捕まえたり。時にはちょっと遠征して、溺れた子がいるからと近寄ることを禁止されてた川まで行ってみたり、林の中の木に登ってみたり。
 ところかまわずどこにでもお尻をついたり滑ったりするので、パンツはゴムが緩くなる前にお尻に穴があき、手足には生傷が絶えずいつもどこかしら赤チンが塗ってある。そんな子どもだった。私だけでなく、当時はどの子も。
 夢中になって遊んでるうちに日が暮れてしまって、親に怒られるのをなかば覚悟しながら慌てて家めがけて走って帰る。そんな毎日だった。
 
 その団地で小学5年生の終わりまで過ごし、弟も妹も生まれて手狭になったというお決まりの理由でわが家も引っ越しをした。新しい土地はそれまで過ごした新興住宅地とは対照的な土地柄で、中学生になった私はなかなか馴染むことができなかった。
 
 中学時代の思い出はあまり楽しいものではない。よそ者、転校生の上に生意気で負けず嫌いという私の性格もあったのだろう、今でいうところの「いじめ」にも遭った。
 まわりに溶け込めず孤独をかみしめながら当時の私が繰り返し思い出していたのが、あのレンゲ畑で遊んだ日々だったのだ。
 
 学校なんて行きたくない、あの頃に戻りたい、などと思いながら、私は何度も何度も無邪気に遊んだ幼い頃のことを思い返していた。胸の中で大事に大事に、自分の記憶を抱き締めるようにしながら。いじめられてすっかり後ろ向きになって過去を懐かしんでいただけ、と言われればそうかもしれない。だけどその記憶があったから孤独は慰められたし、私はまだ大丈夫という勇気もなぜか与えてもらったように思う。
 
 大人になるにつれて記憶は薄れていく。いっしょに遊んだはずの友だちの顔や名前はどんどん朧げになっていく。
 それでもふとした瞬間に蘇る記憶というのもまたある。レンゲ畑の甘い香りに。むせかえる草木の匂いに。虫の鳴き声や公園の木の肌触りに。
 五感に刻まれた記憶は強いのだなと思う。ふだんは奥底にしまいこまれていても、同じ匂いを嗅いだり音を聴いたり手触りを感じた瞬間、ぶわーっと堰を切ったように蘇ってくる。あぁ、だから人は自然のあるところに行くと癒されるのかもしれないな。幸せな子ども時代を想い出して。

 私も野山ばかりを駆け回っていたわけではない。当時の「現代っ子」らしく、テレビも見れば習い事にもせっせと通っていた。
 それでもこうして甘酸っぱく思い出すことのできる記憶があってよかったなと思う。あのレンゲ畑の日々は今も私の心の芯にちゃんとあるのだ。たぶん死ぬまでずっと。
 
 「兒里の家」で遊んだ子どもたちは、どの子もみないい笑顔でした。この上ないほどのお天気にも恵まれていい映像がたくさん撮れました。
 「ばいばーい!」と元気よく帰っていく子どもたち。街に戻ればふつうの幼稚園児・小学生と変わりないのかもしれません。学校や塾や宿題があって、ゲームして遊んで、年頃になれば友だち関係で悩んだりもするでしょう。
 
 でもね、でもね。この日この場所で、レンゲ畑の中で遊んだ記憶、いつかきっと宝物になるかもしれないよ。かつての私がそうだったように。
 
 そんな想いを込めて、ナレーションの最後の一行を書きました。え、なんて書いたかって? それはぜひ番組を見て確かめてください。
 
 
  「兒里の家」のお話は、5月18日(日)のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」で放送されます。
  後半の「ちきゅう屋劇場」というVTRのコーナーです。
  最後になりましたが、館長の橋本さんはじめこの日来てくださっていた皆さん、
  そして元気なちびっ子たちや光ヶ丘小学校のみんな、どうもありがとうございました。

[PR]
b0126865_22491326.jpg


 久しぶりのオフ。よく考えてみたら今月初めてのまる一日休み。なにか有効に使わなくちゃ。
 と考えたので、昨晩は張り切っていなり寿司をつくった。
 
 うちのいなり寿司は何年か前から「わさびいなり」。中に詰めるご飯にわさびマヨネーズを混ぜてつくる。以前取材させていただいた店のわさびいなりがとても美味しくて、試しに作ってみたのが始まりだ。わさびマヨネーズは、長野方面に出かけた時に買っておくわが家の常備品。ピリっとしたわさびの香りと甘辛い揚げとが意外とよく合って、ついつい手が伸びる人気メニューだ。
 
 いなり寿司をつくると思い出す。子どもの頃に食べた母のいなり寿司。揚げがはちきれんばかりにギュウギュウに酢飯が詰まっていて、美味しいのだけどすぐにお腹いっぱいになっていくつも食べられなかった記憶がある。
 そしてそんな「おいなりさん」をつまむ横で、決まって母が話し出す。
「お母さんが子どもの頃は、お弁当というとご飯の上に揚げがのったやつだった」
 きょうだいが多く決して豊かではなかった母の実家。時代もあったのだろう。白いご飯の上に甘辛く炊いた揚げがのっているのがお弁当の定番だったと言う話。
 はいはい、もう百万回くらい聞いた、その話。と可愛げのない当時の私。
 
 お弁当と言えば、中学の頃から自分でお弁当をつくっていた。
 もちろんその頃の私のお弁当にご飯と揚げだけということはなかったのだが、なんとなく母に頼むのが億劫だったのだ。遠足や運動会など行事の時はさすがに作ってもらったが、ふだん(と言っても中学は平日給食があった)土曜日の午後、部活がある時にお弁当を作ってと頼めない雰囲気。部活がなければお弁当はいらない(当時は土曜日も午前中授業があった)。バスケやってるのはあなたが好きでやってることでしょ、とかなんとか言われたような気がする。
 ええい、めんどくさい。なら自分で作るからいいよ。とやっぱり可愛げのない当時の私。
 
 で、今。
 中学生の娘(ソフトボール部)が仕事を終えた私のところにやってくる。
「お母さん、明日の土曜日の部活お弁当持ちなんだけど‥‥あ、いいよいいよ、自分でつくるから」

 歴史は繰り返す。
 娘よ、ごめん。せめて元気のある時はつくるようにするから。さ。
[PR]
by aya_harumi | 2008-04-19 23:26 | 日記
b0126865_21593646.jpg


 バスケットボールを始めたのは39才の時だった。
 小・中・高とバスケ部にいてその後はボールを触ることすらなかった私が、どうして突然またバスケをやろうと思ったのかと言われれば、いちばんの理由は「もうすぐ40だから」だったと思う。

 30代の後半あたりから体力の衰えを感じていた。体の不調も多く経験した。私たちの仕事は体力勝負でもある。ロケ現場に行けば一日中立ちっぱなしは当たり前だ。このままいくとヤバいぞ、何とかして体力を維持しなくては。漠然とそういう思いはあった。
 それだけならジムやプールに行くという手があっただろう。あるいは同世代の友人らがハマっているヨガやダンスという選択肢もあったと思う。テニスとかゴルフとか。この先長く続けようと思うなら、いわゆる中高年でもできそうなスポーツを選ぶべきところだ。
 
 でもどうしてもボールが触りたかったのだ。もう一度。
 娘が小学校でバスケ部に入り、その応援に行くうちにさらにその思いは強くなった。
 その時、39才。あと一ヶ月で誕生日がきて40才になる。いまバスケをしなかったら、この先一生ボールに触ることはないだろうな。そう考えたらいてもたってもいられなくなった。ネットで社会人のバスケチームを探し、ボールとバッシュを買って気づいたら体育館に立っていた。
 
 あれから3年が経とうとしている。
 いいチームと仲間に恵まれ、私は今でもバスケを続けている。どころか今年は選手登録して試合に出ていたりもする。マンツーマンのディフェンスについた相手が、自分の年の半分以下なんてことに軽くめまいを覚えながら。
 
 なんだ。まだまだ私いけるじゃん。
 体力も技術も怪しいものだし、チームの足を引っ張らないようにするのが精いっぱいだが、少なくともバスケができて私は今幸せだ。体力がついたのはもちろん、仕事以外に夢中になれるものも手に入れた。世代の違う友人たちと過ごすひとときは仕事の疲れを吹き飛ばすほど楽しい。
 あのとき「もうすぐ40だから」と諦めなくてよかった。「もうすぐ40だから」と思い切ってよかったとつくづく思う。
 
 自分の体験から考えても、39才は転機だったと思う。
 今にして思えば40代になるのが少し怖かったのかもしれない。無意識のうちに40代は人生の下り坂と思っていたのかも。もう後がない、みたいな。
 
 そんなドラマがこの春始まった。
 TBS金曜ドラマ「Around 40 〜注文の多いオンナたち〜」。大好きな天海祐希さんが主演だし、同世代の女性を描くとあって第1回放送を楽しみにしていた。
 
 番宣によれば、

 アラウンド40(アラフォー)とは40歳前後の世代のこと。
 彼女たちは、80年代に青春を送り、10代の終わりに男女雇用機会均等法が施行され、就職活動はバブルの頂点、就職したら「新人類」、頑張って働いてきたら今度は「負け犬」と呼ばれ・・・と、いつも時代の象徴とされてきた世代だ。産休や育休などの制度普及と重なり、事実上、仕事と育児の両立が可能になった世代でもある。しかし、多様なライフスタイルと価値観を持ちながらも女性にとっては選択肢が多い分、迷い多き世代ともいえる。

 
 だそうだ。
 ドラマの冒頭でそんな「アラフォー」世代についての解説があるところは、TBS的と言うべきか。
 確かに私自身、学生時代はバブリーだったし、男女雇用機会均等法第2期生(確か)だし、子どもを産んだ頃は産休・育休を求めて会社と交渉したりもした世代だ。
 でも時代背景に関わらず、40才前後というのは迷いの多い年代なんじゃないのかな。昔も今も。もっと言うなら男性も女性も。
 
 ドラマの中に、天海祐希扮する精神科医の台詞で、患者にペットボトルの水を見せて
「もう半分、と思うか、まだ半分、と思うかによって見方は全然変わってくる」
というのがあったが、40才というのは「もう半分、と思うべきか、まだ半分、と思うべきか」で人は迷うのではないかなと私は思う。私自身がそうだったからだが。

 ドラマのプロデューサーは新聞のインタビューに答えて
『「今のままの自分でいいんだよ」と訴えたい』
と言っていた。300人以上のアラフォー世代に取材したとも。
 あれ、ということは「今のままの自分でいい」と思えない人が世の中には多いということか。もしかしたら私はとても幸せ者なのかも。いやそれとも単に世間一般からずれているだけか。
 
 結果として、40代始まってしまえばどうということはない。
 さすがに「気持ちはまだ20代」とは口に出して言わないけれど、やりたいことはやるし、手に入れたいものは手に入れる。そういう意味では私は私。20代も30代も今も変わりない。先のことはわからないが、たぶん50代も60代もそう思っている自分がいるような気がする。
 なんだ。まだまだ私いけるじゃん。ってね。



  先日東京でお会いして、昨日スタジオ収録だった元バレーボール日本代表の大林素子さん。彼女もとても
 素敵な「アラフォー」でした。40才になった今も毎年一つずつ夢がかなっているという大林さんの魅力を、
 5月4日のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」でご覧いただけます。どうぞお楽しみに!

[PR]
b0126865_156911.jpg


 番組のゲスト打合せと取材で東京へ日帰り出張。
 東京へ行くのは久しぶりだし、お会いする方はとても魅力的な同世代のタレントさんだし、ふだんはディレクターだけで行く打合せに私を同行させてくれたプロデューサーの好意はとても嬉しいし。
 
 ‥‥なのだが、苦手なのだ。新幹線が。
 久しぶりに乗る新幹線のぞみは、東京ー名古屋間がさらに短縮されていて1時間半ほど。何かをするには中途半端で、かと言って眠れるわけでもない。隣でうちのディレクターはしっかり寝てたけど。
 
 日曜日の今日は家族連れやプライベートの旅行客が多く、ふだんのビジネスマンだらけの車内とは趣が違う。まぁ私たちも端からは仕事に見えないのだが。
 とりあえず、お弁当でも食べてせめてもの旅気分を味わいますか。
 
 資料を読み直したり、ノートに取材用のメモをつくったり。それでもまだ静岡あたり。
 この辺りからトンネルも多くなり、しだいに気分が悪くなってくる。昔からそうなのだが、気圧の変化に弱いらしく、まず第一段階が新幹線のドアがプシュ〜ッと閉まる瞬間。車内の気圧が高めになっているからだろうか、耳の奥に一つ耳栓を入れられる気分。
 そしてトンネルに入るたびに耳栓の厚さが厚くなるような。ごくりと唾を飲んでも容易には取れない。新幹線特有の振動もどうも苦手だ。
 
 ふつうの電車や地下鉄には酔わないのだから、おそらくあのスピードに体がついていけないのだと思う。東海道新幹線は最高速度が時速270kmらしい。フランスのTGVは350km/hとか、中国の上海トランスラピットは430km/hとか。
 いらない。少なくとも私には。
 車の運転で高速道路を120km/hで走るのは平気なので、たぶん私のカラダが容認できる移動のスピードがそのあたりが限界なのだと思う。
 
 いや、頻繁に長距離を移動し、一分一秒が惜しいビジネスマンには速いのはありがたいに違いない。だからこそJR各社も技術を競って速さを売り物にしてきたのだ。そういうニーズがあるのはわかる。
 でもたまに乗る新幹線だからこそ、できれば東京ー名古屋間を3時間くらいかけてのんびり行ってみたいと思う。3時間あれば車内でいろいろ楽しめそうだし。ゆっくり眠ることもできるかもしれない。
 
 帰りの新幹線で耳鳴りに耐えながら私がそう言うと、うちのディレクターは
「じゃあ次からこだまで行けば?」
とのたまった。そうか。その手があったか。
 Uプロデューサー、次から私の分のチケットはこだまで取ってください。
 
[PR]
by aya_harumi | 2008-04-07 02:06 | 日記
b0126865_228478.jpg


 あちらこちらで桜が満開の季節を迎えている。心なしかいつもの年より早い開花。入学式までもつといいなぁ。小学校の横を通りながら想う。
 
 短い花の命を惜しむように、誰もがこの時期桜を愛でる。それに応えるかのように華やかに咲き誇り、ほんの数日でいっせいに花びらを散らす。それがまた儚くて風情があると思ってきた。今までは。
 
 でも今年は違う。
 一本の桜との出会いから、今年はすこし違った目で桜を見ている私がいる。
 
 3月のはじめ、私たちは全国に名を馳せる桜の名木の前にいた。
 岐阜県根尾谷の淡墨(うすずみ)桜。樹齢1500年。あの宇野千代さんが愛したとして有名な桜だ。
 この桜の老木を見守る樹木医さんの取材だった。
 取材場所として指定されたのは、桜の前。名古屋から2時間半かかって辿り着いた根尾谷は、まだ道端に雪が残っていた。シーズンになれば観光バスで埋まる駐車場も今は閑散としている。
 
 桜は圧倒的に大きかった。手元の資料によれば、樹高16.3m・幹周り9.91m。どっしりとした幹から出た枝が左右に大きく広がり、遠目には美しい円錐形を形づくっている。淡墨桜はその樹形の美しさからも高く評価されている。この枝いっぱいに淡墨色の花が咲いた姿はそれはそれは圧巻だろう。
 
 でも私の目には、桜は痛々しかった。
 開口一番、樹木医さんが教えてくれたのは、あの太い桜の幹の中はがらんどうだということ。外側の樹皮と、その下のわずかな形成層だけで生きているのだと。無数の柱で支えているのは、もう自らの力で立ち続けることができないからだと。
 大きく張り出した枝にも樹脂を流し込んで補強した痕が見える。冬場は支柱の先から荒縄で枝を吊る「雪吊り」や雪落しが欠かせない。積もった雪の重みでも倒れてしまうのだという。
 
 淡墨桜は過去に何度も枯死しかけている。昭和20年代には、いよいよ危なくなった淡墨桜に桜の若木の根を200数十本、一本一本手で根接ぎするという気の遠くなるような大手術を受け息を吹き返した。台風や大雪のたびにもう駄目か、もう限界かと言われながら奇跡的に生き続けてきた桜なのだ。
 
 もはや人の手なしには生きられない桜。人により生かされている桜。
 不謹慎かもしれないが、たくさんの延命装置をつけられ意識もなくただ横たわる重病患者のように私には見えた。
 そうまでして生き続けることを、桜は望んでいるのだろうかと。
 
 その意識を変えた出来事は、撮影中に起こった。
 樹木医さんのふだんの仕事の様子をカメラに収めようとしていた時のこと。
 と言っても、雪吊りや施肥など特別な作業以外は桜の様子をつぶさに観察することが樹木医の仕事だ。ただ桜を見るだけではつまらないので、じゃぁ地面でもちょっと掘ってみますか、と言ってくださった。
 
 幹から2mほども離れたところを掘った時。
「いい根が来てる! ほら」
 樹木医さんが見せてくれたのは、新しく伸びた10数cmほどの淡墨桜の根。今年中にあと30cmは伸びるだろうと嬉しそうに教えてくれた。
 幹から遠く離れたここから16mもある樹の枝の先端へ向けて、生きるための水や栄養分を吸い上げる。水分がすみずみまで行き渡れば、花や葉がつくのはもちろん、枝もしなやかになり折れにくくなる。
 
 生きたい。私には桜がそう言っているように聞こえた。
 
 ぱっと咲いてぱっと散る。散り際の潔さが美学のように讃える文化がわが国にはある。淡墨桜が幼木だった時代から、そんな桜を我が身にうつした歌が詠まれてきた。
 老いてなお醜さを晒しながら生きるくらいなら、美しさをとどめているうちにこの世を去りたい。そう願う人も少なくない。
 
 でもこの桜は違うのだ。ボロボロになりながら、人の手を借りながらも、桜自身精いっぱい生きようとしている。その姿はけっして醜くなどない。老いたものだけが見せることのできる、ひたむきで力強い輝きを感じた。
 
 そんな時、映画「タイタニック」をテレビで久しぶりに観た。公開当時も涙しながら観た記憶があるが、今回目がいったのは、若くて初々しいディカプリオでも可憐なローズ役のケイト・ウィンスレットでもなく、一人の老婆だった。
 ローズの現在の姿、脚本では101歳という設定のこの老婆を演じるのは、グロリア・スチュアート。調べてみたら1930年代にグラマーなブロンド美女として人気を博したハリウッド女優さんだそうだ。75年に30年ぶりにカムバック、以来今なお現役で、アカデミー賞演技部門の最年長ノミネート記録も持っている。
 
 オープニングとエンディング、物語の語り部として登場する彼女はしわしわのお婆さんで足取りもおぼつかない。若い頃はあんなに綺麗なローズも、年取るとこうなっちゃうのねぇと女性としては少々哀しく思えた人もいたのでは。
 でも私には美しかった。老人だから表情も微かだが、微笑む姿はチャーミングですらあった。最後の宝石を海に投げ込むシーンでは、ハラハラするほど可愛らしかった。
 
 私がこの映画で最も好きなシーンは、ラスト近く、穏やかな表情を浮かべベッドに入る彼女の枕元に並べられたセピア色の写真を一枚一枚カメラが映し出していくシーンだ。飛行機に乗って得意げなポーズをきめたり乗馬に挑戦したり。回想シーンとも言えるこの場面は、ジャックを亡くし、自由の国アメリカに渡った彼女が、その後の人生を精いっぱい輝かせながら生きたことを伝えてくる。それはジャックとの約束だから。
 
 この映画で、監督であり脚本も書いたジェームズ・キャメロンがもっとも伝えたかった一言があるとすれば、それは極寒の海に愛するジャックを沈めたローズが言う台詞、
「あきらめないわ」
なのだと私は思っている。
 生きることを諦めない。そうして生き続けた人は、年老いてもなお、そこに存在するだけで人々を魅了する力があるのだと。
 
 そう思えば、最近小皺が増えただの肌のハリ艶がなくなってきただの、たかだか40年ちょっと生きたくらいで言ってる私はまだまだ若輩者ですね。
 したたかに、しぶとく生きてやる。死んで花実は咲くものか。桜を見上げながら誓う私。不気味とか言わないように。


  淡墨桜を守る樹木医・浅野明浩さんのお話は、4月6日(日)のCBCテレビ「ちきゅう屋駄菓子店」
 放送されます。後半の「ちきゅう屋劇場」というVTRのコーナーです。
  最後になりましたが、浅野先生、貴重なお話をありがとうございました。

[PR]